811年、みち(奥州街道)を奥へおくへと進んだ大和朝廷は
本州最北のエミシ部落「都母・つぼ」(現在の青森県東北町)へ至り停戦。
つぼのいしぶみを建立。日本中央(ひのもとまなか)と記し凱旋。
ヤマト時代、まつろわぬ民・エミシの住まう東の果てこそ、ヒノモトだった。
かつてヒノモトと呼ばれた南部地方。
縄文遺跡とアイヌ語由来の地名が多く、
縄文文化を担うアイヌとエミシとの深いつながりが偲ばれる。
粉食好きで虫歯だらけだった縄文人の粉食に
縄文クッキーというせんべい状粉食がある。
遺跡から出土する粉食―どんぐり、ナラ、クヌギ、とち、クリ、クルミ―は、
保存食として遠く江戸末期・天保時代まで当地の人々の命をつないだ。
シトギという当地名物の原型、アイヌ粉食「シト」。
うばゆりでん粉の二番粉は五円玉状せんべいとして、
炉上に縄を通し保存し汁で戻して食べた。
古い南部弁で美味しいものは何でも「クルビあじするじゃ」という。
天保の飢饉を木の実の粉食で生き抜いた、北奧の名もなき人々。
「クルビ味して、うめぇじゃ~」という喜びの声に、
遥か縄文より女たちがつむぎ、人々が守る、大地とたましいの息吹を感じる。
陸奥守を務めた長慶天皇(1368-1383在位)に由来する
南部せんべい起源伝説曰く。「そば粉団子を平たく伸ばし、胡麻をつけ
鉄兜で焼いたものを好んで召し上がり、菊水印をせんべいに用いる事を許可した」と。
南部せんべいには必ずこの菊水印が刻まれ、
鉄兜そばせんべいは南部藩で広く野戦食として普及した。
江戸末期・天保(てんぽう)大飢饉後、ヤマセという厳しい
通年冷涼風ふく風土に厳しいコメに代わりムギなど寒さに強い作物が奨励された。
人々の要望をうけ農鍛冶達はいのちを紡いだたましいの食べモノを
手軽に美味しく囲炉裏で焼く「一丁型」を作り出し、
北奧の女たちはハレの祝いで馴染み深いシトを、
ふっくら捏ねて茹でる代わりに小麦団子からすぐにモチモチのせんべいに焼き、
喜びを込め「てんぽせんべ」と呼んだ。
川越せんべい店初代店主・善吉は天保生まれ八戸藩の武家の三男で、
維新後の帰商政策でおいらせ川を北に越え手焼きせんべい屋を営んだ。
南部藩の野戦食を一丁型「せんべ」に作り替え、
特に黒胡麻たっぷりの胡麻せんべいが得意だった。
料理界では黒胡麻たっぷりの焼き物を「南部焼き」というが、
弊店のせんべい一面にびっしりと黒胡麻をまぶした堅焼きの胡麻せんべいは、
145年経った現在でも当店一番人気の逸品。
善吉の晩年、「てんぽせんべ」から天保が取れ、単に「せんべ」と呼ばれ出した。
二代目・覚次郎は明治初期の生まれ。一丁型のみを使う寡黙な職人だった。
祭りの横笛が大好き、吹くのも上手で
「しゃべんねえんども、笛は二人前も吹いだじゃ」と伝わる。
また、おばあちゃんせんべい小松シキ氏の厳しい親方で、
大火で土地と焼き型以外の全てを失い再起奮闘の中、
奉公人の隔てなくコツの全てを伝授した。
覚次郎の晩年、初代のごまのような堅焼きが世間でも完全に本流になり、
自身も渾身のまめせんべいに辿りつく。
カランと焼きあげ、噛めば噛むほど広がり深まる、
食感と味の転調と残響-----。
寡黙で厳しく横笛とせんべいをこよなく愛した覚次郎翁の
人柄と信念が宿った味だ。
三代目・幸次郎は明治後期の生まれ。
店のロゴを作り番傘など様々なロゴ入りグッズも作製。
写真が趣味で先進的な人だった。
幸次郎の代も再び貰い火で全てが焼け落ちた。
焼け跡には一丁型とマルに越の焼印のみが残された。
この焼印と菊水印の川の部分を組み合わせた図案が現在の弊店ロゴだ。
幸次郎は主食級に肉厚な煮込・鍋もの用おつゆせんべいが大好きで、得意だった。
終戦後、当時最先端の手押し式連続手焼き機を導入した頃、
「せんべ」は「南部せんべい」と余所行き名称で呼ばれ出した。
四代目・陽一は昭和初期の生まれ。
手押しで不便だった連続手焼き機をモーター式に替え、
小さかった石窯を南部最大級の長大な石窯に替えた。
「しょりしょり」食感こそ、
川越せんべい店四代をかけたどり着いた美味しさの核心、
との信念だった。
数々の新味せんべいにも次々に挑戦しモノにした。
元会津藩士達が南部名産にした酪農食品に感動し
謹製したバターせんべいは、今でも大人気の逸品だ。
五代目・将弘は昭和後期生まれ。
仙台・東京・神戸・コロラド・大阪・シンガポールと長い旅の果て、
鮭が大海を廻りおいらせ川に帰るように平成28年、五代目を継いだ。
北奧のいのちを守るヤマトより古いたましいの食べモノ、
との自負を込めた新作「福みみSEMBE」は早くも各代店主の逸品に迫る人気。
神戸出身の妻と、おいしく懐かしい、
素朴な「しょりしょり」手づくりSEMBEの極みを目指し、
「遥かなる時の川を越え、
厳しいヤマセの中でいのちを育むたましいの食べモノは、
北奧の女たちに紡がれ人々をまもり続けてきた。
祈りのような、いのちのような、
このたましいの食べモノをしっかりと次代へ伝えたい」
との想いを胸に、今日もせんべいを焼く。
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