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十和田湖龍女考 第一夜 霊山十和田の龍女
「霊山十和田」を熟読し、浮かびあがる
事実と謎を想うに、先ずいつ誰が
十和田湖先住の真の守り女神、
龍女と出会ったかを語らねばならない。
時は平安時代末期。奥州藤原氏の時代。
自らをエミシの出、俘囚の末裔と語った初代藤原清衡の頃、
中尊寺の創建と共に、天台系熊野修験者達が
道の奥、かつてヒダカミ、ヒノモト、又は
ヌカノブ(糠部・アイヌ語ヌカップに由来)
と呼ばれたヤマト最後の調略前線に、入り込みだした。
前線は津軽、秋田、下北、南部(青森・岩手)、
仙台北部に及ぶ広大な蝦夷地で、
未だ大和・平安京の影響の極めて弱い自治区だった。
かつてヒノモトと呼ばれたこの地域は、
平安初期ヤマトの侵攻に激しく抵抗したが
915年、日本有史上最大の噴火が起こる。
十和田湖大噴火だ。
この噴火から23年後の天慶の乱を最後に、
それまで反乱を繰り返していた蝦夷の大部族達も、
まるで消えたかのように、静かに史上から退場したかに見えた。
ところが大噴火から約200年後、
十和田湖は龍女を伴い再び歴史に浮上する。
龍女と出会った男の名前を、ヌカノブマル(糠部丸)、
難蔵、又は南祖坊という。
彼は三戸郡斗賀(ツガ)村生まれの、
法華経を信仰する天台修験者で、熊野山に籠って修行し
十和田湖居住のお告げを受けたという。
五戸・七崎に当時樹齢千年の杉の神木があり、
神木の元に12世紀初め創建された永福寺
付きの僧侶だったとも伝わる。
実際は、南祖とは集合名で、七崎永福寺を拠点として
活動した一群の天台系熊野修験者集団だった
と考えられている。
おいらせ町にも天台・円仁師に因む
古神木・大イチョウが現存し、恐山も天台の円仁開山とされ、
岩木山は真言系修験の行が残るなど、熊野系行者の
平安時代の活動が活発だった様子が伺われる。
南祖が集合名であるならば、
龍女もまた集合名であったろう。
平安後期の修験者達は十和田湖外輪山一帯を
神奈備として尊び、そこでの行を確立したいと考えた。
山伏の修行とは、神聖な山、女神の領域を
霊的な子宮であると感得し、山と人との根源たる
自然智に目覚める事である。
神奈備十和田湖には既に龍女を祀る先住の巫女達が
自立して住まっており、彼女達は龍を、水の女神を、
川と湖を、川の蛇女神達とその始まりたる子宮、聖地トワダ
(アイヌ語。トー:湖、ワダラ:突き出た岩)を祀っていた。
彼女達は、同じく龍を祀りに通いたい、という案をうけ
めおとの契りを要求し、手を携え共に十和田湖の龍を祀る行を修めた。
以上が、「霊山十和田」から純粋に龍女についてのみ
読み取れる内容だ。
先住の龍女の巫女とは、縄文を継承した
エミシの巫女達だったろうし、
縄文母系文化であれば一妻多夫の通い婚も頷ける。
彼女達はエミシの伝統のままに、
女神・十和田湖を祀っていたのだろう。
また、霊山十和田に収められた二枚の地図も
エミシの龍女信仰を紐解く重要な道しるべと言える。
先ず、「近世の十和田参詣道」写真①
江戸時代初期に再整備された、由緒ある
五つの参詣道と、四つの川が図示されている。
奥入瀬川は十和田湖から直接流れ出す唯一の川で、
特別な関係ゆえ、参詣があって当然といえるが、
参詣道は他にも神奈備十和田山一帯を重要な水源とする
二つの川、秋田の米代川と青森岩手に跨る馬淵川に、
まるで繋がろうとするかのように伸びている。
津軽方面へは浅瀬石川の水源である筈だが
参詣道は確認されていない。代わりに、津軽各所には
池や沼を「十和田様」と呼ぶ水神信仰がある。
「霊山十和田」によると、ヌカの嶽(八甲田山)に
八頭龍がおり、こちらもまた龍女と契りを交わし
通い婚の関係にあったが、南祖に負けヌカの嶽に戻った
とされるので、諍いの結果、参詣の風習も廃れ、
十和田様信仰のみが残されたのではないか、とも思われる。
次に「十和田山水明細全図」写真②
こちらは大正12年、十和田湖神社宮司の手によるものだが、
やはり参詣道のような道と四つの川が図示され、
十和田湖がまるで、道と川により四方をつなぐ
結び目の中心ように描かれている。
ここでもやはり奥入瀬川が、特別な川として強調されている。
湖の女神、龍女を祀るエミシの巫女達と
龍女の恩恵を運ぶ川。
そして、湖を中心に結ばれる広大な主要エミシ平野群。
広大なるエミシ自治区、ヒノモトの要たる
神奈備・十和田湖で営まれ続けた
エミシの女神信仰とは一体どんなものだったのか?
この重要な主題については次回、
第二夜・アイヌ神話とその女神達、
にて詳しく取り上げたいと思う。
(次夜に続く↓)
乞うご期待
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